こんにちはノラネコです。今回は2022年6月に訪問した新城城(しんしろじょう)について書いてみようと思いますよ。別名で新城陣屋とも呼ばれているそうです。
そんな訳でいつも通りまずは新城城の所在地確認から。場所は愛知県新城市東入船という所にあり地図で示すとこの辺りになる↓↓↓
現地の案内板によると新城城が築城されたのは1576年(天正四年)で奥平信昌という者が築城させたそうだ。信昌は前年に起こった長篠戦役において武田軍の攻勢から長篠城を死守した事で有名で、この戦闘において長篠城が大破したことにより少し離れた場所に新城城を築かせた。
1590年(天正一八年)に主君の徳川家康が関東地方に転封されると信昌もそれに従い新城城を離れたが、その後は代わりにこの地を治める事になった池田輝政の家臣などが城主を勤めたようだが1645年(正保二年)に一旦廃城になる。しかし1648年(慶安元年)からは菅沼氏の陣屋として使われるようになり明治時代になるまでその役割を果たした。現在は市役所、小学校などが建っており僅かに土塁、空堀などの遺構が残されているとのこと。
という事なので行って来ましたよ・・・新城城に。車は新城市役所の駐車場に停めさせてもらいそこから現地まで徒歩で向かう。このすぐ近くに「桜淵公園」という桜の名所があるので花見の時期にここに来るのは避けた方がいいかもしれない。
他のサイトで新城城の縄張り図というのがあったのでそれを見ると本丸を中心に南側を豊川を天然の水堀とし、残る三方を土塁、空堀で守らせる構造になっている。そして更にその外周を郭や武家屋敷で固めるように見える。
かつて本丸があったとされる場所は小学校のグランドになっていた。その南端の辺りに土塁と思われる遺構が残されていた。更にその向こうに空堀があるらしいのだがよく分からない。土塁の下に「新城」と刻まれた石碑があり、その上にも石碑と案内板が設置されていた。そう言えば以前にここでも述べたが案内板はともかく重量のある石碑をこのような不安定な場所に設置するのは安全面から見て如何なもんかね?最近は雨降りも多いしさ、まぁ俺が被害を受けなければ別にどうでもいいんだけど。
土塁の脇にも新城城に関する案内板があったが、こちらには新城城と新城市の関係や城跡の整備に関する事について書かれていた。更にその隣にレトロな風情の建物が残されていて、こちらは小学校の旧校舎で「しろあと資料館」という名前だったが中には入れそうにはなかったね。一応この辺りは小学校の敷地内のような感じだったのであんまりウロウロするのはよろしくないと思い写真を適当に撮ってから撤収することにした。そんな訳で・・・
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ノラネコと申します。色々と思うところがありましてこのようなブログを始めてみました。学がないので稚拙な文章ではありますが、内容が伝わってくれれば幸いです_(._.)_