上宮寺と勝鬘寺に行ってきた話(城跡巡りFile.47)

お疲れ様ですトヨクニです。前回に本証寺について書いたがその時に上宮寺(じょうぐうじ)と勝鬘寺(しょうまんじ)の名前が出てきたので、今回はそれについてまとめて書いてみようと思った。本証寺に行ったついでにこの二つの寺もまとめて訪問したのだが遺構類は無かった代わりに三河一向一揆について書かれた案内板とかが立っていた。

岡崎城と寺との位置図

地図見ても分かるが二つの寺は岡崎城に近いため一向一揆の争乱時には戦火に巻き込まれしまい、勝鬘寺の方は半年近くも家康と争っていたが最終的には敗北し焼け落ちてしまう。この時の上宮寺についての詳細は不明だが寺にある案内板によると一揆を鎮圧した後に破却されたと書いてあるので恐らくは勝鬘寺と同じ運命を辿ったのだろうと勝手に予想しておく。

その後は本証寺と同じくしばらくは荒廃したままだったが、両方とも江戸時代に入ってから再建が許されたみたいで現在に至っている。因みに勝鬘寺が建立された時期は1256年(正嘉二年)で上宮寺に至っては何と598年でこの頃は推古天皇の時代なんだがあの聖徳太子もこの寺の建設に関わっている・・・らしいよ。

本証寺を探索した後にこの2つの寺も見学してきたが上宮寺の方はエラく豪勢な造りになっていたな、ちょっとした宮殿のようにも見える。お寺ってのはそんなに儲かるモンなのかねぇ…鉄筋コンクリート造の本堂に違和感を感じつつも周辺を散策してみたが城絡みの遺構は特に見当たらなかったな。その代わり三河一向一揆に関する案内板が立っていた。

勝鬘寺の方は昔ながらのお寺という感じでこちらはちょっと小高い丘の上に存在していた。なので平山城に分類されるのだろうか?その当時、家康が居城していたとされる岡崎城からは目と鼻の先に位置するので一向宗が蜂起した時には真っ先に攻撃対象となったのだろう。こちらも特に遺構類などは見当たらなかったし、案内板みたいなのも無かった。

前回書いた本証寺があれだけ本格的な城郭であったので、この2つの寺は支城的な役割を担っていたのかと思っていたがどうもそんな感じはなくそれぞれ独自に行動していたとも言われている。何にせよこの半年近くの戦闘で一揆軍は敗北してしまいその後数十年以上も経ってからやっと再建を許可されたのだとか。どうでもいいが耐震性を考慮すれば木造よりも上宮寺のような鉄筋コンクリートの方が良いかも知れんね寺院としての情緒は薄れるだろうが。そんな訳で・・・

攻略難易度★

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