古宮城へ行ってきた話(城跡巡りFile.69)

三河の城

どうもこんばんはトヨクニです。今回は愛知県新城市に存在していたとされる古宮城(ふるみやじょう)について書いてみようと思います。

古宮城が築城された時期はハッキリとは分からないがwikiには1572年(元亀三年)に甲斐の武田信玄が家臣である馬場信房に命じて築城させたと言われています。この頃の武田氏は三河方面へ積極的に攻勢を行っており、この古宮城はその前線基地として作られたようです。ついでに武田氏に従属したこの周辺の豪族に対する監視の意味合いもあったそうですよ。ここから少し南に亀山城がありますが、そこの城主で当時は武田家に従っていた奥平貞能に対する監視も兼ねていたのでしょう。

神社入口付近にある案内板

1573年(天正元年)に信玄が死亡すると貞能は武田氏を見限って徳川家康に寝返っています。この時に貞能とその一族は亀山城を放棄して家康の元に走ったのですが、それに気が付いた古宮城に駐留する武田軍が追撃してきたそうです。追撃部隊は貞能達を捕捉出来ず、逆に家康の援軍に返り討ちにされついでに古宮城も落とされたそうです。この戦闘は「古宮城の戦い」と呼ばれています。

境内の様子 右手の階段を上ると東側の主郭に出られる

その一方で1575年(天正三年)辺りまでは武田氏の支配下にあり、「長篠の戦い」で武田軍が敗北し三河方面への影響力が弱まった頃に徳川軍の攻撃を受けて落城&廃城になったという話もあります。どちらにせよ築城されてから数年位しか使われてなかったという事ですな。

この辺りが主郭らしいです

現在は山林で一部の敷地に神社が建立されていますが、郭や曲輪、虎口、帯曲輪、濠などの遺構が良好な状態で遺されています。

車で訪問する場合は城の北側は住宅密集地なので、南側路地に駐車して神社から城を目指した方が良いでしょう。神社脇の階段を登ると主郭に入れます。

これが中央の巨大濠みたいです。ここに敵兵を誘い込み両側の主郭から攻撃するのでしょうか?

城郭構造は山城に分類されるのでしょうか?そんなに高い山ではないしそこそこに整備されているので攻略難易度は低くいですね。この古宮城なんですが愛知県内の城郭の中では少々変わった構造をしてるようでして、中央に大きな空堀が走っておりこれによって東西に分断されているような形になっています。主郭部分が東西に分かれているような感じでしょうか?一説によると敵兵をこの中央にある巨大壕に誘い込み文章では上手く説明できないので新城市HPから拝借した図を貼っておきます。↓↓

この二つの郭を中心に多数の帯曲輪や堀で周囲を固めている感じです。外側なんか水堀だったそうですよ、この辺りは山間の所なんで山城が多いのですが水堀があるのはここくらいじゃないですかね。甲州流の城郭構造なんていわれていますが山梨や長野辺りの城跡はこんな感じのモノが多いのでしょうか?

まさに要塞といった感じの古宮城なんですが、その寿命はあまりに短く、大した活躍も出来なかったようにも見えますが周辺豪族に対する威圧という意味ではそれなりの効果があったのかもしれませんな。そんな訳で…

攻略難易度★

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