大草城に行ってきた話(城跡巡りFile.40)

尾張の城

やぁどうもトヨクニです。今回は愛知県長久手市にある大草城(おおくさじょう)について書いてみようと思う、そう言えば前に長野県にある大草城の事を書いたね。因みに大草城と呼ばれる城址は愛知県内だけでもここ以外に2箇所あるようだ、一応分類しとくとこちらは大草城(尾張長久手)というところか?どうでもいいけどさ・・・

後で分かった事なんだけどスペック表には築城は永禄年間(1558~1570)と書かれているが、この城は鎌倉時代の頃から存在してたらしい。この時代に起こった承久の乱の際に一度は廃城の憂き目に遭い、しばらく時を経て永禄年間に再建されたのだそうな。この付近は城跡とかはあまり無いので、ここにこんな歴史のある城郭が存在していたのは少し意外であった。

大草城遠景 写真右にある小高い丘の辺り

室町時代末期の戦国時代に入り織田信長の家臣である森長可がこの城を支配するようになると大規模な改修工事が行われて防御施設の強化と天然の地形を利用した本格的な城塞となったようだ。因みに城主の一人である福岡新助という人物であるがこの地の豪族で長可が改修工事を終えて本拠地の美濃国(岐阜県)に引き上げると城代として入った者らしい。この者の詳細は不明ではあるが長可の家臣の一人なのかな?

しばらく歩くと看板が見えてくる

1584年(天正十二年)3月から尾張北部にて豊臣秀吉VS織田信雄・徳川家康連合軍によっておこなわれた「小牧・長久手の役」が始まると最前線にあるこの大草城も戦火に巻き込まれることになる。

森長可は豊臣方として池田恒興と共に三河へ侵攻し徳川軍と戦ったが長久手の戦いで戦死してしまう。その時に多くの豊臣方敗残兵がこの城に逃れてきたと言われている。そして徳川軍の反撃が始まると戦場に近いこの大草城も徳川軍の攻撃に晒されてしまうが既に防備を固めてあった為、さすがの徳川軍も攻めあぐねてしまう。更に豊臣軍の援軍が向かっている報を受けた徳川軍は城の攻略を諦めて引き上げていったという。

その後の詳細は不明であるがこの戦役後に廃城となったようだ。現在は神社が建立されており、石碑の他には土塁などの遺構類が僅かに残っている状態だ。

今回も車で訪問したのだけどさ周辺に駐車できるスペ-スがなさそうだったので少し離れた北側の路地に停めさせてもらった。そこから少し歩いて西側の進入口から訪問した。

そこから入るとすぐに石碑が見つかるが案内板とかは見当たらない。石碑の裏側にかろうじて城主の一人である「福岡新助」の刻まれているのみだった。長久手の戦いで森長可が敗死した後に起こった徳川軍との城を巡る攻防戦での指揮官の一人ともいわれる。

現在は「永見寺」という寺が建っている

堀や土塁の遺構があるそうだが、訪問当時は城の構造物についての知識がほとんど無かったので、どの部分を指しているのか分からなかった。写真撮ってないけど今思えば確かに土塁らしきモノがあったようなきがするなぁ。

最近は他のサイトで大草城の俯瞰図も見つかったので、それらを参考に遺構類を見てみたい。いつか再訪してみたいと思うが多分もう行かねえだろうな・・・

攻略難易度★ 

コメント

タイトルとURLをコピーしました