宇利城に行ってきた話

三河の城

毎度どうもトヨクニです。今回は2019年6月に訪問した宇利城(うりじょう)について書いてみようと思う。三河と遠江の境に存在し、城を巡る激しい攻防戦も行われたと言われる宇利城・・・果たしてどのような城郭なのだろうか?

宇利城は1469~1489年(文明年間)に熊谷重実によって築城されたと言われている。重実は源平合戦で活躍した熊谷直実の末裔(wikiに三河熊谷氏と書かれていた)でこの当時は駿河国の今川家に従属していた。

宇利城遠景(写真中央の山)

この時の今川家の当主は今川氏親(義元の父)であったが、1526年(大永六年)に氏親が亡くなってしまう。今川家の影響が弱まると、その隙を突いて三河統一を目指す松平清康(家康の祖父)の侵攻が始まる。この時の城主は熊谷直利で周辺の土豪は既に松平家に降っていたが直利だけは降ることなく城に籠り抵抗するが、味方の裏切りなどもあり落城してしまう(宇利の戦い)

1545年(天文一四年)頃から再び今川家の三河侵攻が始まると宇利城は今川家の手に落ち家臣の近藤氏が城主を勤めることになる。その後、桶狭間の戦いでまた今川家の影響が弱まってくると近藤氏は徳川家に従属し、引き続き城主を勤めることになる。

1570年頃になると今度は甲斐の武田家による三河侵攻が始まり、宇利城も武田軍の攻撃を受けたようである。この時は城の防衛に成功するが損害が大きかったのか?近藤氏は宇利城から別の城に移ったと言われている。宇利城がその後、どうなったのかは分からないが武田軍の攻撃を受けた際に損傷が激しく修繕されることなくおそらくはそのまま放棄され廃城、そして現在に至ると考えられる。

駐車場は城から少し離れた県道81号線沿いにあるので、そこに車を停めさせてもらってそこから歩いて行くことになる。一応は登山口付近まで車は通れるのだが、駐車できるスペースは無い。

山城だが城までそんなに距離もなく道も荒れてないので辿り着くのに苦労することはないと思う。登山口からしばらく主郭を目指して歩いてゆくと松平親盛の墓が見えてくる。宇利の戦い際にこの場所で戦死したそうだ。因みにこの時の戦いをめぐって清康とその叔父である松平信定が対立してしまい、この事が切っ掛けで後に発生する清康暗殺にも関わったとも言われている。

さらに登ってゆくと主郭へ向かう道と井戸跡、石垣跡へ向かう道に分かれる。先に井戸跡、石垣跡を見学してから主郭へ向かった。

主郭内には石碑と案内板、あと櫓が建っていたとされる案内板もあった。主郭の東側に空堀を挟んで姫御殿と呼ばれる部分があった。最初は二の丸かと思ったが城の俯瞰図を見るに主郭の一部なのかもしれない。

北側には「納所平」と呼ばれる曲輪跡が存在しているらしいが、木々や横掘跡に遮られて近づけなかった。西側の方にも曲輪跡や虎口の遺構が存在しているらしいが、こちらもそこまで行く道が崩れかけていて少し危険を感じたので行くのは止めた。

「宇利の戦い」について少し書くと松平清康の三河統一に向けた最後の戦いである。城の攻略には成功するがその代償に叔父の松平親盛をはじめ多くの犠牲をだしてしまい、更に親盛の戦死を巡って同じ松平一門である松平信定との間で何らかのトラブルがあったそうだ。三河統一を成し遂げた清康は勢いに乗って隣国の尾張国に攻め込むがその途上で味方の裏切りによって暗殺されてしまう・・・

別の個所にある石垣

この暗殺劇は「宇利の戦い」で恥をかかされた松平信定が仕組んだとも言われているが真相は不明でその後、松平家は急速に弱体化し遂には今川家の軍門に降ることとなる。その後、当主となる松平信康(後の徳川家康)が三河地方を再統一するのは1566年(永禄六年)である。そんな訳で・・・

攻略難易度★★

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