長久手城に行ってきた話

尾張の城

ど-もトヨクニです。今回は2015年11月に訪問した長久手城(ながくてじょう)について書いてみようと思う。長久手といえば1584年(天正一二年)に勃発した「小牧・長久手の役」が有名であるが、その戦場の只中に存在していたと思われる長久手城は果たしてどのような運命を辿ったのだろうか?

長久手城が築城されたのは1429~1441年(永享年間)頃と言われているが築城主については不明。案内板に書いてあった歴代城主に斎藤氏の名前があったが築城主ではないようだ。その後、織田信雄(信長の次男)の家臣であった加藤忠景が入り城を修築して居城するようになった。

現在は公園?になっている

加藤忠景は岩崎城主であった丹羽氏次の姉を正室にしていた。このため1584年(天正一二年)に始まった「小牧・長久手の役」で忠景は家康&信雄陣営に従い岩崎城に入る。その後、岩崎城は羽柴軍の攻勢に晒され落城し忠景もこの戦いで亡くなったようだ。

この時の長久手城の状況は詳しくは知らないが廃城年が1584年とされており長久手の戦場にも近かったため、おそらくは岩崎城と同様に羽柴軍の攻撃を受けて落城、そのまま廃城となったと思われる。

長久手城の遺構は残っていないが、城が存在していたと言われる所に石碑と案内板、そして観音堂が建っていた。羽柴軍の攻撃で落城寸前になった時に密かに持ち出された観音像が祀られているらしい。城郭構造は二つの郭で構成された平山城で周辺を空堀や土塁で固めた典型的な中世の城郭だったようだ。忠景が城主だった時にこのような構造に修築されたのだろう。

観音堂

観音堂のある敷地は公園みたいな広場でそこに石碑や案内板もある。周辺は閑静な住宅地で城や激戦地の面影は全く感じられなかった。駐車場はないが広場周辺の道幅が広いので路駐して探索した。他のサイトに掲載されていた古い地図によると長久手城の構造は二つの郭で構成されていたらしい。その周囲を堀や土塁などで囲っていたようである。なんにせよそんなにおおきな城ではなかったようだ。まぁ元々あった武家屋敷を城郭風に改造したのだろうな。探索時間は約20分位だろうか

あと余談ではあるが長久手城跡のすぐ近くに「血の池公園」という物騒な名前の公園があり、かつてそこに前山池とよばれた池が存在しそれも城の防御施設の一部として利用していたそうだ。なんで前山池から血の池と呼ばれるようになったかと言うと長久手の戦いの後、徳川方の武将が敵兵の血で汚れた武具をこの池で洗い、その後毎年戦いの行われた日になると池が血の色に染まる伝説があるんでこんな名で呼ばれるようになったんだと。戦乱期でしかも激戦地ならではの怖くて血生臭いエピソードだよな、まぁ今では閑静な普通の公園なんだけどね。そんな訳で・・・

攻略難易度★

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