福谷城に行ってきた話(城跡巡りFile.51)

尾張の城

おはようございますトヨクニです。今回は愛知県みよし市に存在していたとされる福谷城(うきがいじょう)について書いてみようと思いますよ。ここも一部の歴史マニアの方には有名な城郭なのかもしれない。因みに俺は最初、フクタニと呼んでいたのだよなぁ・・・

現地案内板やネットの情報によると福谷城が築城されたのは室町時代末期の頃といわれ糟谷宗則という者が築かせたといわれるがこの辺りは分からないが戦乱期の頃にはこの辺りの土豪であった原田氏重という人物が城主だったようだ。

この辺りが空堀部分になるのだろうか? 階段上がると主郭へ出る

駿河の今川氏が三河地方を支配下に置かれると福谷城もその傘下に入ったようだが、尾張との国境沿いにあったため織田家の攻撃を受けてしまう。1556年(弘治二年)に織田信長は福谷城に攻勢を仕掛けるため家臣であった柴田勝家に命じて1000名の兵士で攻め込んだ。氏重は岡崎城の松平元康(徳川家康)に援軍を求め、これに応じた元康は家臣の酒井忠次を主将にして福谷城に援軍を送り込んだと言われる。勝家は何度か攻撃を仕掛けるものの忠次の防衛により多数の損害を被ってしまい撃退されてしまう、その後は何故か忠次が城主となり城の改修工事などを行って引き続き織田軍に備えていたようだ。

しかし1560年(永禄三年)に桶狭間の戦いで今川義元が死亡しその後、松平元康が独立して織田信長と同盟を結ぶようになると福谷城はその存在価値を失いそのまま廃城となったようだ。現在は郭や土塁、空堀の一部が残されている。

どの辺りに車を停めればいいのか分からなかったので道幅の広い麓辺りに路駐して現地まで向かった。少し歩く羽目になったが途中に看板もあったので迷うことなく城跡までたどり着いた。階段を上るとそこは主郭部分になり案内板と土塁らしき遺構が確認できた。案内板の図を見ると途中の通路は空堀部分になるのだろうか?主郭の隣には保育園が建っているのだがこの辺りは曲輪にあるのだろうかね

俺はあまり歴史にはあまり興味がないのだがそれでも織田家筆頭家臣である柴田勝家と徳川四天王の一人である酒井忠次の名前くらいは知っている。その二人がこの地で戦ったと思うと何とも感慨深い気持ちになる・・・ような気がする。でもこの二人の経歴についてはよく分からないし今更調べる気にもならんのだよな、辛うじて知っているのは勝家が豊臣秀吉と戦いに敗れ自死したぐらいか?まぁ俺の歴史観なんて所詮はそんなものよ、そんな訳で・・・

攻略難易度★

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