こんばんはトヨクニです。今回は愛知県大府市に存在していたとされる追分城(おいわけじょう)について書いてみようと思います。訪問したのは7,8年位前か?
追分城が築城されたのは1559年(永禄二年)、稲垣淡路守という者が築城させたという。この稲垣淡路守という人物についての詳細は不明であるがこの頃にこの一帯を支配していたは水野信元(家康の伯父)という豪族だったので、もしかしたらその家臣かあるいは従属していた独自の勢力だったのかも知れない。
この時期は駿河の今川氏の勢力がこの辺りにまで及んでおり、信元はそれに対抗する為に尾張国の織田氏と手を組んで今川氏とそれに従属していた松平家と戦っていたようだ、いわゆる代理戦争というやつですな。
追分城がこの当時、どちら側の勢力に着いたのかは分からんが城から少し南の所に石ヶ瀬川が流れておりその辺りで松平軍と水野軍が戦った(石ヶ瀬川の戦い)という記録があるので、恐らくは今川方に味方していたのだろうと勝手に推測してみる。
桶狭間の戦いで今川義元は戦死するとこの地域でも織田・水野連合軍の巻き返しが始まり、追分城も落とされたと思われるがその辺りの記録は残っていないので詳細は分からない。
江戸時代になって追分城の跡地に尾張藩士であった阿部正興の屋敷が建てられが明治時代には解体されその後は耕作地になっていたようだが、堀などの遺構は残っていたようだった。しかしそれらも昭和に入ってからの土地開発などで消滅したようで現在は「大府北中学校」が建っている。現在は学校敷地内の片隅に追分城に関する案内板が立っているのみである。
現地を散策してみた感想だが周辺は完全に開発されつくしているような感じで城の痕跡は一切見当たらなかった。案内板を見ると昔(昭和20年代)の航空写真には城の痕跡が写っているとのことなのでネットで調べてみたらそれらしき写真が見つかった。見ると確かに郭を囲んでいる空堀らしき遺構(赤丸の所)が確認できる。まぁこれが遺構かどうかは分からんが…
ついでに大府市のHPにも城に関する記載があり、そこには城の地図や規模について書かれていた。それによると追分城の大きさは東西約66メートル、南北約84メートルの平城だったとのこと。
今は亡き城の遺構を昔の航空写真で出来るとは思わなかった、ついでに市町村のHPにも城の情報が載っていることも分かった。サイトの情報や書籍以外にもこのような方法で城について調べることができるんだなぁと少々賢くなったような気分になったトヨクニでした。そんな訳で…
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ノラネコと申します。色々と思うところがありましてこのようなブログを始めてみました。学がないので稚拙な文章ではありますが、内容が伝わってくれれば幸いです_(._.)_
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