今回は医王寺城についてまったりと語ってみようと思う。医王寺城の所在地は愛知県新城市長篠で前回書いた長篠城のちょっと北の方にある城郭で正確に言うと寺社なんだけど、武田勝頼が長篠城を攻略する際にここに本陣を構えたようだ。本堂の裏手が山になっておりそこに曲輪や土塁、恐らくは物見櫓なども整備して長篠城攻略の指揮を執ったのだと思われる。医王寺砦と呼んだ方が正確なんだろうか?
医王寺城が築城されたのは武田軍が三河地方に再侵攻してきた天正三年(1575年)4月頃だと言われている。奥平信昌が籠る長篠城を完全包囲し、そこから北へ約500Mぐらいの所にある医王寺を接収した武田軍はその裏手にある丘に城を築き勝頼はその場所から長篠城攻略の指揮を執った。しかし守備側の必死の防戦もあり、城の攻略は難航し5月18日には織田・徳川連合軍の救援軍が設楽原に到着してしまう。医王寺城で軍議した勝頼は織田・徳川連合軍との野戦を決断した模様で長篠城には牽制用の兵を残し、翌5月19日には設楽原へと進軍を開始するが5月21日の戦闘で多くの将兵を失う大敗を喫してしまう。
その後、戦場を離脱した勝頼は医王寺城の戻る事はなく本拠地である甲斐国へ撤退するのであった。医王寺城がその後、どうなったかは記録が無いのでよく分からないのだが織田・徳川軍に攻略されたか設楽原の敗戦を知って逃げてしまったか?どっちにしろそのまま放棄されて廃城になったと思われる。医王寺城についての概要はこんな感じか
医王寺は現在も健在であり、その裏手に作られたとされる陣城の遺構も一部が残されている。長篠城から歩いても行けるが駐車場もあるので車で行った方が良いと思う。入り口は二箇所ありどちららでも到着までの所要時間は変わらないと思う。一応は山城に分類されるのだが、そんなに高くないのですぐに到着する。急ごしらえの城郭なのでそんなに大きくないが郭や土塁などの痕跡はハッキリとしている。城の中央部に切り欠きみたいな部分があり書籍によるとそこは堀切だと書かれているが、これって何の役目を果たすのだろうねぇ?
主郭らしき所には模擬櫓が建てられており登ることも可能だ。やはり模擬櫓というのはこうでなくてはな・・・そこからの眺めは良く長篠城のほぼ全体を見渡せる。実際に櫓が建てられていたかどうかは知らんが勝頼がここに立って戦況を睨んでいたのは間違いないだろう。その時の勝頼の心境はどんな感じだったのだろうか?案内板に書いてある通り勝利を確信していたのだろうかね・・・その後、約10年掛けて坂道を転がり落ちてゆくとは夢にも思っていなかっただろうな
ノラネコと申します。色々と思うところがありましてこのようなブログを始めてみました。学がないので稚拙な文章ではありますが、内容が伝わってくれれば幸いです_(._.)_