田峯城へ行ってきた話(城跡巡りFile.10)

三河の城

今回は田峯城(だみねじょう)へ行ってきた話をのんびりと語ってみようと思う。田峯城の所在地は愛知県北設楽郡設楽町田峯という場所に在り、別名は蛇頭城(じゃずがじょう)とも呼ばれている。笹頭山の中腹辺りにある山城で文明二年(1470年)菅沼定信という者が築城させたようだ。三河地方の豪族で菅沼氏というのはよく聞かれる氏族であるが、この菅沼定信は田峯菅沼氏と呼ばれているらしく所謂本家筋の系統らしい。築城された後も田峯菅沼氏が城主を勤めていたらしいが、桶狭間の戦い後に徳川家康が三河地方を統一すると当時の城主だった菅沼定忠は家康に従うのだが1570年代に入って甲斐国の武田氏が進出してくると家康を見限り今度は武田信玄に従属することになった。因みにこの定忠は前回書いた「野田城の戦い」にも武田方として参戦しているらしい。

案内板

信玄が死去して勝頼が当主になるが、変わらずに武田氏に従っていたようだ。しかし天正三年(1575年)に勝頼が「長篠設楽の戦い」に敗れてしまう。この時に定忠は長篠の戦場に居たのか?はたまた敗走してきた勝頼を迎えに出た為なのかは分からないが田峯城には在城していなかったらしい。勝頼と共に入城しようとしたが留守部隊が裏切って門前払いされてしまったのでやむを得ず、更に北にある支城まで逃走する羽目になった。

復元御殿 当時もこんな立派な建物だったのだろうか?

その後、何とか武田氏の勢力圏内である信濃国(現在の長野県)に勝頼と共に逃げ延びる事が出来たが、メンツを完全に潰された定忠は怒り心頭だったようで、翌年には三河国に舞い戻り天正四年(1576年)7月14日、隙を見て田峯城を急襲し城の奪還に成功する。その時に城に居た者は皆殺しにされたが、特に裏切った親族や家臣は生け捕りにして鋸挽きの刑にされたんだそうな・・・定忠がその後、いつまで田峯城に居たのかは不明だが最終的には天正10年(1582年)に討ち死にしたとあるので信濃か甲斐国あたりで亡くなったのだろう。

復元櫓

田峯城はその後、徳川家康の指示で定忠の甥である菅沼定利という者が城主になったようだが天正一八年(1590年)に家康が関東に転封されると定利もそれに従ったため城は放棄され廃城になったそうだが、異説で家康が転封後に三河国に入った池田輝政の家臣が城主を勤めたとも言われている。どちらにしろ江戸時代の入るまでに廃城となったのは間違いないと思う。田峯城の概要はこんな所かね

櫓からの眺め

さて山城である田峯城だが、山道は整備されており車ですぐ近くまで行くことができるので攻略難易度は低い。遺構は堀、郭、曲輪などが残されているが主郭に資料館も兼ねている復元御殿があるのだがこちらに入るには入場料が必要となる。主郭内には御殿以外にも物見櫓や大手門、厩舎なども復元されている、これらの復元物が当時このような形で存在していたのだろうか?あと俺は行かなかったがちょっと離れた場所に処刑場跡もあるようで、上で書いた鋸挽き刑もそこで行われたらしいよ、あんなの「北斗の拳」の世界だけかと思っていたけど実際にあったんだな。やっぱり中世は怖えぇよな平和な現在に生まれたことを感謝感謝だよ、ナンマンダブ・・・

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