長篠城へ行ってきた話(城跡巡りFile.06)

三河の城

今回は長篠城(ながしのじょう)についてgdgd語ってみようと思う。城の所在地は愛知県新城市長篠町にある、知名度だけ言えば日本全国にある城郭の中でも上位に当たるのではないだろうか?天正3年(1975年)に勃発した織田・徳川連合軍と武田勝頼との間で行われた「長篠の戦い」の要因となったのがこの長篠城である。

本丸を取り囲む巨大な堀

長篠城が築城されたのは永正五年(1508年)この地方の豪族だった菅沼元成という者が築城させたと言われている。その後も菅沼氏の支配が続きこの地方に進出してきた今川氏や徳川氏に従属してきたが、元亀二年(1571年)頃から甲斐の武田氏が三河国に侵攻してくるとそれに屈服し、今度は武田氏に従属する事となるが長篠城は引き続き菅沼氏が支配している。元亀三年(1572年)末頃になると三河・遠江地方における武田氏の侵攻は益々激しくなってきたが翌年に武田信玄が病没してしまい武田軍は本拠地の甲斐国(現在の山梨県)に引き揚げてしまう。そして徳川家康の反撃が始まるとこの長篠城も徳川氏に奪回されてしまい菅沼氏の支配は終焉を迎えることになる。

本丸跡

その後、信玄の跡を継いだ武田勝頼が再び三河地方に押し寄せて15000人の軍勢で長篠城を完全包囲してしまう。この時の城主は奥平信昌という者でかつては武田家に従属していたが、信玄亡き後に武田家を見限り徳川家康に鞍替えしていた手前、勝頼に絶対に降伏という選択肢はなかった。武田軍の猛攻の前に僅か500人足らずの守備兵しか居ない長篠城は落城寸前となるが貞昌の家臣である鳥居強右衛門という人物が文字通りの命を懸けて岡崎城に居る徳川家康に援軍を要請し、それを受けて織田・徳川連合軍約38000人が長篠へ向かうことになる。因みに鳥居強右衛門はこの事を少しでも早く城側に伝える為、一足先に長篠城へ向かったが運悪く武田軍に捕らえられてしまい処刑されてしまう。ここでは割愛するが、その時のエピソードも有名な話だね。

本丸を囲む土塁址

その後、武田軍は長篠城を放置して織田・徳川連合軍と長篠設楽の地で決戦に臨むが大敗を喫してしまい、多くの将兵を失った勝頼は這う這うの体で甲斐国へ退却する事になる。これが世にいう「長篠の戦い」である。

しかし戦いには勝ったものの武田軍の攻勢による長篠城の損壊は激しかったようで、翌年になって信昌は近くに新しい城を築かせてそこに移り住んだ為、長篠城はそのまま放棄され廃城となった。そして現在は国の史跡に指定され「長篠城址」として整備されている。概要はこんな感じだろうか?

案内板

俺がここへ訪問したのは一昨年辺りだったと思う。有名な城郭だと思うのだがその日は土曜日だったけど人は全然いなかったね、所在地は愛知県の外れの方だが車や公共交通機関でも行きやすいと思うのだが。とりあえずは散策してみたのだが城の敷地全体は意外にも広かったね。本丸部分はそんなに広くないので、ここだけを見ると小城の類になるのだろうけど大手門の位置や周辺の曲輪などを加えるとそれなりの大きさになる。長篠城の遺構で特に目に付くのは本丸を取り囲む巨大な堀と土塁だろう。この部分は勝頼が侵攻する直前に急遽造営された代物らしいが、これらの強力な防御施設と鳥居強右衛門などの勇敢な兵士などのおかげで武田軍の猛攻を凌げたのだろうと思う。

背後には豊川が流れており断崖絶壁

あと遺構ではないが地図見ると分かる通り長篠城の後方を流れている豊川があるのだが、こちらは断崖絶壁になっている。そう言えば昔読んだ横山光輝の書いた漫画「武田勝頼」でこの長篠城を巡る攻防戦も書かれていたのだが、武田軍が川を渡ってこの断崖絶壁を登って攻めてくる描写があったな。ちょっと無理があるような気がするが・・・

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