武節城に行ってきた話(城跡巡りFile.11)

三河の城

今回は武節城(ぶせつじょう)に行ってきた話をクドクドと語ってみようと思う。この城に行ったのは割と最近で確か今年の五月位だったような気がする。丁度そのころにコロナショックの影響が出始めており、会社も平日が休みになったのでその時に訪問した城だったなぁ。

案内板

まぁそんな事はどうでもよろしくていつも通り武節城について書いてみると所在地は愛知県豊田市武節町城山という所にある山城だ。築城されたのは永正年間(1504年~1521年)頃で前にも書いた菅沼定信(すがぬまさだのぶ)という者が築かせたようだ。定信はそれ以前にも田峯城も築かせてそこを根城にしており、武節城は支城という立ち位置のようだ。別名で地伏城とも呼ばれているらしく場所的に信濃国(現在の長野県)と美濃国(現在の岐阜県)との国境に近いためなのか?この城を巡る戦いも何度かあり城主も頻繫に変わっていたようだ。弘治二年(1556年)には甲斐国の武田氏から攻撃を受けており、1560年初頭までは田峯菅沼氏が駿河の今川氏に従属していたので今川氏の家臣が城主を勤めたりもしていた。

主郭部分 背後には土塁

記録には無いが今川氏が没落し、代わりに徳川家康が三河地方を統一すると今度は徳川氏に従いその時の田峯菅沼氏の当主であった定忠が城を奪還したみたいだ。ところが1570年代に入り武田氏の三河侵攻が本格化すると定忠は徳川氏を見限ってしまい武田氏に従属することになる。当然のことながら武節城も武田方の城となったのでその後は徳川軍の攻撃を受けることになった。信玄の死後に家康の息子である徳川信康に攻め込まれているようで結果はどうなったかは分からないが、天正二年(1574年)2月頃に始まった武田勝頼による東美濃地方における大攻勢の際に多数攻略した城の中に武節城の名前があったようなので信康は城を落としていたのかもしれないね。天正三年(1575年)に発生した「長篠設楽の戦い」で勝頼が敗北すると最初は田峯城に入るつもりだったが定忠の配下が裏切った為、やむを得ず定忠と共にここから北方にある武節城に入る事になった。勝頼はここで一泊した後に信濃経由で本拠地である甲斐国に帰還した。その後間もなくこの武節城も織田・徳川連合軍の攻撃に晒されて城は徳川家が支配することになった。その後も信濃の国境に近かったため武節城は存続し、天正一八年(1590年)に家康が関東地方に転封されると廃城になったようだ。武節城についての概要は大体こんな所かね

土塁 数メートル位の高さか?

現在は豊田市の指定史跡であり「武節城跡」と呼ばれている。山城ではあるが山の頂上辺りにある二の丸部分が駐車場になっているので攻略難易度は低いのだが、個人的には武節城に隣接する道の駅駐車場に停めて麓から登って散策した方が良いと思われる。主郭部分や曲輪などの輪郭は割とハッキリしているのでどんな感じの城郭なのかは大体分かるような気がする。特に主郭背後にある巨大な土塁がひときわ目を引く。一説によるとこの土塁上に物見櫓が建っていたと言われているね。勝頼が長篠の合戦に敗れてここに寝泊まりしたときの心境は一体どんな感じだったのだろうか?主郭部分を散策して思わずそんな事を考えてしまったよ。

攻略難易度

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