鳴海城へ行ってきた話

尾張の城

ど-もこんばんはです。今回は鳴海城(なるみじょう)についてテキパキと語ってみようと思うよ。別名で根古屋城(ねごやじょう)とも呼ばれるこの城に行ったのは3、4年位前だろうか?場所は愛知県名古屋市緑区で現在は児童公園になっている。この時も車で訪問したのだが、公園用の駐車場とかは無いので路駐しようと思ったけどさ周辺道路も道幅が狭いのでちょっと無理だったね。しかも名古屋市は駐車禁止の取締が厳しいので路上駐車は止めといた方が良いかもしれん。そんな訳で最寄り駅でもある名鉄鳴海駅周辺でコインパーキングを見つけてそこから鳴海城へと向かうことにする。駐車場から歩いて約10分位で到着した。公園は小高い丘の上にあり、当時と地形が変わらないのなら平山城に分類されるのだろうか?石碑が建っているだけで遺構類などは見当たらず、案内板なども設置されていないので鳴海城の詳細についてはwikiを参考にさせてもらう事にした。

鳴海城があった場所 現在は児童公園になっている

それによると鳴海城は応永年間(1394年~1428年)の頃で、安原宗範という者が築かせたと言われるが宗範の死後に一旦廃城になっているらしい。天文年間(1532年~1555年)の頃になると尾張国は織田信秀(信長の父)が支配するようになり、また東方からは駿河の今川氏も進出してくるようになったので信秀はそれを抑えるために三河との国境にある鳴海城を再整備したと思われる。しかし信秀が亡くなり信長が後継者となると当時鳴海城主であった山口教継という者が城ごと今川氏に寝返ってしまう事態となった。これに対して天文二十二年(1553年)に信長は鳴海城に攻め込んでいるが撃退されてしまう。今川軍からみれば最前線の城になる為なのか城主を岡部元信という義元の直臣が勤める事になった。永禄三年(1560年)に発生した桶狭間の戦いで義元が戦死してしまうと前線に残った多くの今川兵は我先にと駿河に逃げ帰ってしまったが鳴海城にいた岡部元信だけは最後まで踏みとどまって織田軍と戦い、城を明け渡す事を条件に義元の首を取り返すことに成功している。その後、元信は義元の遺骸を伴って駿河へ帰還したらしい。今川軍が立ち去った後の鳴海城は信長の家臣である佐久間信盛・信栄父子が城主を勤める事になったが天正末期(1593年)頃には廃城になったと言われている。鳴海城についての概要は大体こんな感じだろうか?

東福院の寺門 鳴海城の城門を再利用したらしい

遺構についてはwikiによると空堀などが残っているらしいが、訪問して散策してみたのだがそれらしき痕跡は見当たらなかった。ただ公園に隣接している「東福院」と呼ばれる寺にある寺門が鳴海城の城門だとも言われている。この時の探索時間は大体30分位だったかな

攻略難易度★

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