東条城に行ってきた話(城跡巡りFile.14)

三河の城

ど-もこんにちは。今回は東条城(とうじょうじょう)についてヒソヒソと語ってみようと思う。ちょっと記憶が曖昧だけどここに訪問したのは3、4年前だろうか?写真見たら以前乗っていたスズキ・スイフトが写っていたからね。いい車だったんだけどね10年近く乗ってこれからも所有してゆくつもりだったのだが、俺の不注意のせいで大破全損してしまったからな。たかが車のはずなのに身代わりになって死んでくれたみたいで未だに申し訳ない気持ちがある・・・

駐車場の存在を知らなかったので路駐してしまった

まぁそんな話はまた別の機会にするとして今回語る東条城なんだが、場所は愛知県西尾市吉良町という所にある平山城である。遠景では独立した丘の上に建っているように見えるが、城が健在だった当時は近くの山まで連なっていた。県道を整備する為に掘削し現在のような独立丘陵になったんだそうな。現在は文化財などの指定は受けていないものの城跡公園として整備されており各種の遺構や復元物として城門や物見櫓などがある。

二の丸部分から主郭を撮影 復元された城門と櫓

東条城がいつ築城されたかは不明であるが、現地案内板によると承久三年(1221年)に足利義氏という者がこの辺りの荘園頭となりその息子である吉良義継が東条城に入ったと書いてあったので少なくとも鎌倉時代には存在していたという認識で良いのだろうか?その後も吉良氏の支配が続いたようだが、室町時代の戦乱期に入り駿河の今川氏が三河地方に進出してくるとそれに従うようになる。桶狭間の戦いで義元が戦死して代わりに徳川家康が台頭してくると吉良氏は東条城を拠点にしてそれに対抗したようであるが力及ばず永禄四年(1563年)に降伏し同時に吉良氏の支配も終わることになる。余談だが後に発生する「赤穂事件」の被害者でもある吉良上野介はこの吉良氏の末裔なんだってさ。

案内板 ちょっと色褪せているが東条城について詳しく書かれている

その後、東条城には家康の一族である東条松平氏が入りしばらく平穏が続いたが天正十年(1582年)、家督を継いで新しく城主になったはずの松平忠吉が東条城に入らず別の城に入った為、そのまま廃城となったと言われる。他にも天正一八年(1590年)に家康転封後に廃城になった説もある。概要はこんな感じで

物見櫓 登ってみたいが・・・

まず東条城址には専用駐車場もあるのだが非常に分かりにくい。城の北側を走る県道沿いにあるのだが入口が分かりにくい上、民家の庭先のような感じなので多くの人はスル-してしまうと思う。よく見ると手作り感満載の看板が立っているのでそこが専用駐車場というのが辛うじて分かる。そこから少し歩いて城の西側から頂上を目指すことになる。一応は駐車場の脇に主郭まで一気に行ける直登用の路地もあるのだがここは帰りに使う方が良いと思う。遺構は帯曲輪と呼ばれる部分や二の丸、主郭、土塁の一部などが残されていた。二の丸部分に案内板なども設置されており東条城の事について詳しく書かれている。主郭部分には復元された見張り台付き城門や物見櫓が出迎えてくれるがどちらも登ることは出来なかった。記録上では東条城を巡る戦闘は無かったようだが、すぐ近くに「藤波畷の古戦場」がありここで吉良軍と徳川軍の戦闘があったようで、この戦いに敗れた吉良氏は戦意を喪失してしまい東条城の開城につながる事になる。

攻略難易度★

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