吉田城に行ってきた話(城跡巡りFile.19)

三河の城

こんばんはトヨクニです。今回は2015年頃に訪問した吉田城(よしだじょう)についてヌル-く語ってみようと思う。まずは地図の方から貼ってゆこうか、城の所在地は愛知県豊橋市今橋町という所にあり現在は城跡公園として整備されている。地図見ると市役所とかあるのでこの辺りは豊橋市の中心部になるのかねぇ、車で行くなら公園内に駐車場(有料)もあるし公共交通機関を使うなら近くに路面電車も走っているので訪問しやすいと思う。

wikiによるとこの吉田城は別名で今橋城とも呼ばれており、城郭規模だけで見れば愛知県内では最大なモノになるらしい、あの名古屋城よりも広いのかね・・・城郭構造は主郭を中心に北側を豊川、南側を二の丸で固めて更にその周辺を帯状の三の丸が囲んでいるような構造になっている。これだけでもかなり巨大な城郭だった事が伺えるが、その他にもいくつかの巨大な櫓が存在していたと言われており現在はその一つが復元されている。大規模な城郭であった吉田城であるが築城された当初はそこまで巨大ではなく幾度となく激しい戦火に晒されてその度に改築されていたようだ。

復元された鉄櫓 中は資料館になっている

吉田城は永正二年(1505年)にこの地方の領主であった牧野古白という者が築かせた城で当時は「今橋城」と呼ばれていた。この頃の東三河はこの牧野氏と田原城を本拠地とする戸田氏が覇権を巡って争っており、国境沿いに存在していたこの吉田城も牧野・戸田両氏の争奪戦が繰り広げられ幾度も持ち主が変わったが享禄二年(1529年)には西三河の松平清康(家康の祖父)が吉田城を攻略し、清康の家臣が城代を勤めるようになる。

城の北側を流れる豊川

しかしその清康が天文四年(1535年)に尾張国で戦死してしまうと松平氏の影響力が弱まり、再び牧野氏が城を支配するようになるがそれも長くは続かず天文六年(1537年)、戸田氏に城を奪われてしまう。その後しばらくは戸田氏の支配が続いていたが、東から駿河の今川義元が進出してくるようになると天文十五年(1546年)に城は落とされその後は義元の家臣が城代を勤めるようになり三河地方攻略のための拠点となった。

永禄三年(1560年)に桶狭間の戦いで義元が戦死し、三河地方における今川氏の影響力が弱まった後もこの吉田城だけは保持し続けていたが永禄八年(1565年)、最終的には徳川家康によって攻略され同時に三河地方から今川氏の勢力は駆逐される事になる。その後は甲斐の武田氏に攻められたりもしたが何とか守り抜き、天正一八年(1590年)に家康が関東に転封されると代わりに池田輝政が入城し、この頃になって吉田城の大改築が行われあのような大規模城郭となった。

江戸時代になってからも藩庁として機能し、同時に東海道の重要拠点の一つとしての役割を担う事になる。明治時代には陸軍の駐屯地になっていたがこの頃に発生した火災で多くの建物が焼失したらしい。現在は本丸付近を城跡公園として整備されて他にも市役所、野球場、美術館、中学校などが建っている。吉田城についての概要はこんな感じかね

これだけ大きな城なんで遺構類は多数残されている。郭、曲輪、土塁、石垣、土橋が良好な状態で保たれており再建造物として鉄櫓(くろがねやぐら)と呼ばれる巨大な櫓が主郭部分に建てられており、中は吉田城に関する資料が多数展示されている。城が健在だった当時は全部で九つの櫓が存在しており、現在はその跡地に櫓の名称が彫られた石碑が建っているそうだ。宝探しの感覚で全部探してみようと思ったが最後の一つが分からなかった、多分中学校の敷地内にあると思うのだけど・・・あと意外にもこれだけ大きな城にも拘わらず主郭内に天守閣は建てられず代わりに御殿屋敷みたいなのがあったそうな

まぁこんな広大な城なんで全部は見れなかったが主要な部分は抑えたつもりなんでこれで良しとしようか、吉田城に行った、それだけで良いのさ。そんな訳で・・・

攻略難易度★

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