高縄城に行ってきた話

三河の城

おはようございますトヨクニです。今回は高縄城(たかなわじょう)について書いてみようと思うよ、訪問した時期は忘れてしまったが確かスイフトで行った記憶があるのでおそらくは数年以上前だと思う。

wikiの情報によると別名で大津城(おおつじょう)とも呼ばれているらしい、築城されたのは1475年(文明七年)頃で築城主は戸田宗光と言われる。戸田氏がこの辺りに進出してきた頃に築城されしばらくの間は本拠地として機能していたが、宗光は後に田原城を築かせてそちらに移転する。ついでに前に書いた二連木城も宗光が築かせて渥美半島の更なる支配を強化していったが北から進出してきた牧野氏に手を焼き、最終的には船形山の戦いで死亡したと言われている。

この盛り上がった部分が土塁とされる

宗光死亡後も戸田氏の支城として使われていたようで、位置的に田原城と二連木城の中間ぐらいに存在しているため戦略的にも重要な城だったようだ。その後の詳細は不明であるが廃城になった時期は徳川家康が関東に転封された1590年(天正一八年)、もしくは一国一城令が制定された1615年(慶長二十年)とも言われている。現在は「豊橋市立家政高等専修学校」が建っているが敷地外には土塁などの遺構も一部残存している。

駐車場は無いが学校の北側路地に停めさせてもらえば大丈夫だと思う、この先は行き止まりだし幅も広いので邪魔にはならないだろう。交通機関を使うなら豊鉄渥美線「老津駅」から徒歩10分というところか?

車を停めた路地の先に丘のように盛り上がった部分があるのだがそこが土塁の遺構らしい。城郭構造の詳細が分からないのでこの盛り上がった部分が城壁として使われたのか?それとも見た感じ丘のようにも見えるので、土を盛ってその上に城を建てたのかもしれない。写真で見ても分かるが一部とは言え、かなり奥の方まで伸びている感じなのでそれなりに大きな城郭だったのかもな。かつては渥美半島から最盛期には知多半島の一部まで支配下に置いていた戸田氏の居城だったのだからこれだけ大きくてもまぁ当然なのか

あと学校の敷地内に高縄城の碑が建っており、校門付近にあるので外からでも確認できるが横に城に関する記述がある。だが外からではちょうど死角になる位置にあるのでこれは敷地中に入らないと見えない、この日は学校は休みで門は固く閉ざされており中には入れなかったので今回は他のサイトからその画像を転載させてもらった。因みに現在は校門付近が工事中のようで写真の碑は撤去されている模様である。そんな訳で・・・

攻略難易度★

コメント

タイトルとURLをコピーしました